no title
鬱でない人は
生きるのが当たり前
希望があるのが当たり前
鬱を患う人は(その重症度にもよるが)
死ぬのが当たり前
希望がないのが当たり前
前提がまるっきり逆だから
両者がすれ違うのは当然だ。
それはつまり
鬱の当事者とそうでない人が見ているのは
ネガとポジが反転した正反対の世界なのに
お互いに、相手が自分と同じものを見ていると
思いこんでいるということだ。
当事者でない人に理解を求めるのは難しい。
誰もが自分のことで手一杯だ。
他人の病気などに関わっていられない。
よしんば知識として理解できたとしても
前提からして違うということは
感覚或いは感情としては理解できない
ということだ。
「だから自分は救われないんだ」
と早合点しないことだ。
認知の歪みで言うところの
「結論の飛躍」である。
まずは当事者自身が
鬱について知ることから始めよう。
薬は対症療法でしかない。
認知療法を研究することで
鬱状態の発生するメカニズムを知る。
そうすると、鬱を病む人、そうでない人の
前提がどうして違ってくるのか
論理の力を借りることで、理解できるようになる。
知識のない当事者同士がWEB上で集まって話をしても
互いに手を取り合って
さらなる深みに沈んでゆくだけだ。
また、自分だけで材料もなしに考えても
全知全能の神でなく、不完全な人間だ。
簡単には解決への糸口は見つからない。
「ならばどうにもならないじゃないか」
と早合点しないことだ。
思而不學則殆
(思ひて学ばざれば即ち殆(あやう)し
という言葉がある。
本ブログでは認知療法を推奨しているが
哲学、思想、宗教、歴史
古今東西、一生をかけて己の来し方行く末を見据えた
先人達の知恵を借りるのも悪くない。
「そんな面倒なこと、自分にできるはずがない」
「何もやる気が起こらないし、自分は特殊な例なのだ」
と早合点しないことだ。
エネルギーが本当に枯渇している状態なら
腰を据えて休むこと。
少しでもエネルギーが出てきたのなら
まず、始めること。
「治らないかも知れないけれど、でも治したい」
という思いは、必ずあるはずだ。
そこから、始めよう。
ただし、御利益を金で売りつける宗教は
ほぼインチキと考えた方が良いだろう。
先の大戦後、日本人は宗教アレルギー気味である。
が、本来、宗教は
この世界、或いは宇宙といっても良いだろう。
そのありようを紐解き、己をその一部として
世界との繋がりを体感しながら生きるための
道しるべである。
人が生きるのに不可欠なものであり
かつ、即物的に御利益を求めるものではない。
拝金教?
あれほど酷いインチキはないだろう。
人を世界から切り離し、個人個人をもバラバラにして
支配するためのツールだからだ。
生きるのが当たり前
希望があるのが当たり前
鬱を患う人は(その重症度にもよるが)
死ぬのが当たり前
希望がないのが当たり前
前提がまるっきり逆だから
両者がすれ違うのは当然だ。
それはつまり
鬱の当事者とそうでない人が見ているのは
ネガとポジが反転した正反対の世界なのに
お互いに、相手が自分と同じものを見ていると
思いこんでいるということだ。
当事者でない人に理解を求めるのは難しい。
誰もが自分のことで手一杯だ。
他人の病気などに関わっていられない。
よしんば知識として理解できたとしても
前提からして違うということは
感覚或いは感情としては理解できない
ということだ。
「だから自分は救われないんだ」
と早合点しないことだ。
認知の歪みで言うところの
「結論の飛躍」である。
まずは当事者自身が
鬱について知ることから始めよう。
薬は対症療法でしかない。
認知療法を研究することで
鬱状態の発生するメカニズムを知る。
そうすると、鬱を病む人、そうでない人の
前提がどうして違ってくるのか
論理の力を借りることで、理解できるようになる。
知識のない当事者同士がWEB上で集まって話をしても
互いに手を取り合って
さらなる深みに沈んでゆくだけだ。
また、自分だけで材料もなしに考えても
全知全能の神でなく、不完全な人間だ。
簡単には解決への糸口は見つからない。
「ならばどうにもならないじゃないか」
と早合点しないことだ。
思而不學則殆
(思ひて学ばざれば即ち殆(あやう)し
という言葉がある。
本ブログでは認知療法を推奨しているが
哲学、思想、宗教、歴史
古今東西、一生をかけて己の来し方行く末を見据えた
先人達の知恵を借りるのも悪くない。
「そんな面倒なこと、自分にできるはずがない」
「何もやる気が起こらないし、自分は特殊な例なのだ」
と早合点しないことだ。
エネルギーが本当に枯渇している状態なら
腰を据えて休むこと。
少しでもエネルギーが出てきたのなら
まず、始めること。
「治らないかも知れないけれど、でも治したい」
という思いは、必ずあるはずだ。
そこから、始めよう。
ただし、御利益を金で売りつける宗教は
ほぼインチキと考えた方が良いだろう。
先の大戦後、日本人は宗教アレルギー気味である。
が、本来、宗教は
この世界、或いは宇宙といっても良いだろう。
そのありようを紐解き、己をその一部として
世界との繋がりを体感しながら生きるための
道しるべである。
人が生きるのに不可欠なものであり
かつ、即物的に御利益を求めるものではない。
拝金教?
あれほど酷いインチキはないだろう。
人を世界から切り離し、個人個人をもバラバラにして
支配するためのツールだからだ。