調子の悪い日の記録

23日の移動に始まり、28日まで5日連続で生徒指導。
大規模なMP切れを起こしている。
さすがに無謀だった。

思考が回らない(思考制止)。

疲れているのに目ばかりが冴え
眠れないから起き出してPCに向かって
モニターの光を見て恐らく悪循環。

こんな夜は
母親に手を握ってもらっていたら眠れるのに。
なんて気持ちも顔を出す。

若者に嫉妬したり
賑やかな音楽に耳を塞いだりも
したくなる。

以前はこんなことを
毎夜毎夜書き連ねていたものだ。
このブログを掘れば、そんなものが
いくらでも出てくる。

自分が今あることが
大いなる何かによって
絶対的に肯定されていると解っても
最大MPはまだまだ回復しないのだ。

こんな夜もあると
書き留めておく。

鬱と思考障害

自分の状態が安定しているときは
実は鬱的思考の一部が分からなくなってしまう。

鬱患者にはある種の思考障害があると
認知療法の大家であるデビッド・バーンズ博士が
著書『いやな気分よ、さようなら』の中で書いている。

多様な可能性を検討することができなくなっており
鬱的結論に一直線に向かう傾向がある。
というのが、ぼくなりの解釈。

勿論、「思考障害」という語は
悪意を込めて書いているわけではない。

思考障害があるからこそ
鬱という症状に苦しんでいるのであり
断じて患者の責任ではない。

良いこともあったのに、悪いことだけを思い出して
全てダメだったと結論づけてしまう
「心のフィルター」

たった1回、言い争っただけで
その人に全人格を嫌われたと思ってしまう
「一般化のしすぎ」
「結論の飛躍」

などなど、認知の歪みは
思考障害が原因となって現れる。

認知療法では、論理の力を借りることによって
意識して様々な可能性を検討する。

状態が安定すると、思考障害も改善される。
無意識のうちに多様な可能性を考えることが
できるようになる。

このために、鬱的な思考プロセスを
実感として辿ることができなくなる。

鬱と共に戦う仲間に向かって
上から目線でものを言っていないか。

苦しみの先に見える光は
自分自身で会得しなければ真実とはなり得ないのに
安易な言葉によって説明を試みていないか。

こういう時にこそ、鬱的思考プロセスを検討し
どこに問題があり、解決の糸口が
どこにあるのか把握しておく。

そうしておくと、次に自分の鬱が悪化したときに
早く抜け出すためのツールともなろう。

寝そびれた

いろいろな立場やいろいろな価値観の人がいる。
共感してもらえないからと言って
恨んでも無意味。
まして、パソコン上の文字での付き合いならなおさら。

深夜の孤独とmixi依存
それから、連日忙しいことでのMP不足
そういうものが、気持ちをささくれさせているだけだ。

前の晩に強制終了をかけてちゃんと寝たんだから
今夜も早く床に就けば良かった。



…それでも、あの人のことが気がかりだ。
鬱の状態が悪いときは恐らく
何を言ってもお節介にしかならない。
だから、祈るしかないのだ、
早まったことをしないように。

死んでしまったら
全ての可能性がなくなってしまうのだから。

本日は晴天なれど

箇条書きモード。

◆快晴にもかかわらず、空気がキーンと冷えている。真冬到来。

◆日経新聞より3題

ホンダ社長の言葉を借りる形ではあるものの「(石油を使った)繁栄の100年から次の100年への転換だ」と言い切った。衰退の始まった自動車産業は、石油文明の象徴でもある。T型フォードから始まったこの華々しき消費文明を、後世の歴史家はあだ花と呼ぶのであろうか。

ワークシェアリングというキーワードの記事が2点。懸念されるのは、企業側がこれをねじ曲げて利用すること。雇用を守る大義名分のもと「給料減らして就労時間も減らさん」では、労働者をさらなる地獄に突き落とすことになる。クラッシュを防ぐには「労労」間のみならず「労使」間でも「分かち合う」ことを考えねば。

ニュートン2月号が本日発売。特集は「細胞」。内容を想像するに、忘れてしまった高校生物を思い出すも良し、お子さんの探求心の糧にするも良し、なのではないかと。似非科学に騙されないためには、中学のお粗末な理科知識を生涯学習で補完していくことが必要。

クリスマスをたしなむ

母親がクリスチャンであったため
ぼくも幼児より
クリスマスをごく当たり前の年中行事として
受け入れてきた。

もっとも、「サンタクロース」が夜中に届けてくれる
プレゼントが楽しみだったせいものもある。
(こちらの方が子供らしいかw)

知らない間にクリスマス・イズムに
どっぷりと浸かっていた自分は
学生になって一人暮らしを始めてからというもの
「シングル・ベル」を恥じ
ある年は半ば盲目的にパーティーをする相手を探したり
またある年は孤独に苛まれたりしてきた。

ところが、クリスマスに恋人や仲間と過ごすのが勝ち組
そうでないと負け組、という洗脳から目覚めてしまうと
本来は異教のお祭りであるクリスマスを
商機として最大限に利用するための
仕掛けを客観的に観察することができる。

日本におけるクリスマスは、本来の
キリスト教的な意味もなければ
冬至のお祭りでもない。

日本中のメディアを総動員し
商店街やメーカーその他、モノやサービスを
売りたい人たちが一丸となって
この壮大なお祭り騒ぎを「演出」し
国民を消費に走らせる装置でしかない。

その根底として利用される心理は、横並び意識。
さらにえげつのない言い方をすれば
他人より損をしたくないという心理だ。
「クリスマスには誰もが幸せであるべきだ」と主張し
「その中で、あなたは幸せですか?」と問いかけられれば
たいていの人は、はっとして周囲を見回し
損をしたくないからと
無理矢理にでも恋人や仲間を見つけ
プレゼントとパーティーという消費を
強迫的に行うようになるものだ。
(勿論、「家族」という装置も最大限に利用される。)

さすれば、シングル・ベルという名の負け組が
必然的に発生する。
負け組は妬み、恨み、或いは自己卑下という感情を持つ。
結果、アンチ・クリスマス派が発生する。

だが、負け組とされる人々が、現実には不幸でないことは
何日か前のエントリで述べた。

勝ち組は、実際に幸せなんだろうか?
無論、嬉しかったり楽しかったり
美味しかったり気持ちよかったり
というのはあるだろう。
けれども、ステータスを得たという単なる優越感や
独りにならずほっとしたという部分は
単に椅子取りゲームに勝った程度の意味しか持たない。

もっとも、当人達が幸せならばそれで良い。
不謹慎だとか言って貶めるつもりはない。

ただし、翌年以降、或いは年老いてから
独りになったときに、発想に変化がなければ
彼らは確実に不幸なクリスマスを迎えることになる。
ぼくが危惧するのはそこだ。

さて、「恋人たちのクリスマス」が最上とされるのは
バブル期以来の伝統ではないかと思う。
アクセサリ、レストラン、そしてホテル業界。
このあたりが結託して喧伝した思想ではないだろうか。

より消費を喚起し、アンチを減らすという意味では
シングル・ベルも1つのオプションとして
持ち上げる戦略を取ってみるのも面白いだろう。

日本へは商業的意義のみが輸入されたクリスマスではあるが
否定する必要はさらさらない。
人生に楽しみは多い方がいいのだから。
わざわざアンチをやって消耗する必要もない。
だが、振り回されて不幸になったり
仲間集めに奔走して疲れてしまったりではつまらない。

半歩退いたくらいで、ほどほどに楽しむ。
いわば、「クリスマスをたしなむ」スタンスが宜しいかと。

とりとめもなく雑記

mixiで何件か吠えてみようと思ったものの
徒労感が強いのでやめてしまった。

レスを期待することを前提としたシステムなため
子犬のようにレスを期待し、ないと落ち込んだりもする。
そんな自分の卑屈さが嫌になって
自分に追い打ちをかけてしまったりもする。

自分のプロフィールを明かしていることと
会員の中には、人を傷つけることに喜びを感じる
心ない輩が少なからずいることで
コミュニティで発言することもはばかられる。

繋がっているはずなのに
繋がっていない不安定さを感じる場所だ。
そう感じてしまうのは、自分がmixiに
少なからず依存しているということでもある。

ここでは、レスがあることを前提とせず
思ったまま、時として真っ黒なものを投げ込んでいる。
一方向のコミュニケーションにも関わらず
妙な安心感があるのは
鬱というものを解っている人が読んでくれている方が
殆どだというところによるところも大きい。

文句も言わず読んで下さる読者の皆様には
本当に、頭が上がらない。



実は、明け方に過ぎにならないと寝付けなくなっている。
秋につけてしまったレンドルミンに対する耐性が
まだ充分下がっていないため
薬には頼りにくい。

いつもの肩凝り、そして
この季節特有の
「足先が冷えて、温まるまで寝付けない」
ことも原因だ。

幸い、昨年ほどの絶望感とは
あまりお付き合いしないで済んでいるのが
救いである。
相変わらずMPは少ないけれども。

鬱を抱えてはいたものの、10年余りも
自分の肉体は機能することを止めず
ぼくをここまで連れてきた。

苦しみと向き合うための平穏な日々を与えてくれた。
心の震えるような感動をいくつも味わった。

世界と繋がり、世界によって生かされている。

病むときは病み、死すときは死す。
それでいい。

孤独≠不幸

日中の最高気温が19℃を上回り
春一番を思わせる風が吹き荒れた
冬に至る日。

地中海の北岸は意外に緯度が高く
ローマは北東北と同じくらい。
となれば、日の長さの年較差はかなりあって
冬至を太陽が再生を始める日としても
不思議ではない。

聖書に記載のないキリストの降誕日が
冬至にこじつけられたのも
古代ローマで流行していた太陽信仰の
影響を受けているとか。

2000年経って、冬至とクリスマスには
日付の上で若干のずれが生じた。

21世紀のクリスマスには、すっかり商業主義が蔓延し
異教徒の住む極東の島国へは
太陽の再生や救い主の降誕という精神すら
抜け落ちたものが伝わっている。

イブの晩に恋人とプレゼントを交わし
レストランで食事してからセックスすることが
最も尊いとされる。
次に尊いのは、"仲間"なるものと
どんちゃん騒ぎをすること。
幸せであることを強要される。

仕事があれば不幸とされ
独り身は最悪とされてしまう
そんな奇妙な日である。

だからと言って、不謹慎だとか
歪んだクリスマスなどやめてしまえだとか
そういう話ではない。

人生に楽しみは多い方がいい。
お祭り騒ぎは大いにやるべし。

冬の清澄な大気の中
イルミネーションに彩られた街を歩く。
笑顔で行き交う人々を眺める。
もう雪景色の地域もあるだろう。
街でなくとも良い。
吹きっさらしの港で
凍てつく空に輝く、絢爛豪華な
冬の星座を眺めたっていい。

イチゴのショートケーキを
自分が食べる分だけ買って帰り
お気に入りの音楽をかけて
一杯やるのもいい。

仲間や恋人といたって
人の絶対的な孤独は埋められない。
皆で空騒ぎしても、虚しいときは虚しい。

孤独は不幸ではない。
いつもそこにあるだけだ。

孤独でいる自分を貶めることなく
受け入れることによって得られる幸福がある。
「自由」だ。

一人旅の醍醐味は、実はそこにある。
見知らぬ人々、風景、食事、などなど。
一人であっても、いや、一人だからこそ
あらゆるものが鮮やかに見える。
一期一会の体験が、心にすっと染みこんでくる。

クリスマスなどのハレの機会を
一人で迎えるのは
そんな感覚を日常の中に落とし込んでみる
絶好のチャンスなのではないか
そんな風に思う。

孤独=不幸という自動思考(固定観念)を
疑ってみよう。
世界の見え方が不思議なくらい変わるはずだ。